兀狄山人漂泊録 GotutekiSanzin /Minimal Wild /Ultla Light/Hermit

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世捨て 入門~001~ はじめに

世捨て 入門~001~はじめに
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話をとことん単純化して枝葉をはらって私個人の主観を書くならば、
世を捨てる とは、手段であり 目的は自由である。

自由とは何か、とはまた難問だが、取り敢えず 葛藤無き生 としておこう。

何々からの自由なる原始的な自由と、何々への自由なる近代的な自由があるならば、私の自由は、徹底的にかつ根元的に……即ちラディカルに……、 何々からの自由である。
 あ、早くも枝葉に寄り道しかかった。

何をもって、世を捨てる、となすか?つまり、定義を語らんとすることは、意味がなくもないが、やや無駄なことである。 
何故ならば、希求する自由なる事の性質度合いが人により違う以上、手段たる 世捨て も又各々だろうから。

何ぞ大賢、野にのみ在らざる哉。である。

と云うわけで、世捨て 入門等と風呂敷を広げても所詮、小生ごとき怠け者の浮薄な菅見、管クダの細さも恥じず羊頭を掲げ狗肉を売るの類いのこととは知りながら、物言わぬは腹ふくるる心地との古人の言を言い訳に駄文を連ねる……言い訳が長いなぁ……

 要するに、無礼千万無責任勝手なことを言うけど、怒らないで聞き流してください、お気に召さなかったら無視してください。と云う 御断り であるヨ。

閑話休題 ~ソレハソレトシテ~

 さて、JSミルの「自由論」は、主に国家権力と自由の話であるが、自由の話をするならば権力は避けられない。

ある角度から言うならば、「世捨て とは、権力からの逃避である。」と言える。 

さて、ここからが肝心。
権力とは、「意にそまぬことを強制する力」である。

強制される者は「私」であろうから、「私」にとって対峙するべき権力を行使する者は「悪しき他者」と言っていい。

この「悪しき他者」は、権力の露アラワさ・直接性・強制力・暴力の度合いにより階層をなしている。

他者のハイエラルキーの頂点は「国家権力」つまり「法」である。
次に「世間」様即ち「見えざる不文律、慣習、常識、時代的無知蒙昧、衆愚」等々である。
そして、一番基礎的部分、謂わば下部構造が「私の中の他者」である。

この、「私の中の他者」に、皆は馴染みもないし気付いてもいないだろう。
これが発見されてまだ百年と少ししか経っていない。
フロイトが発見してラカンが固めて、私が曲解した考え方だ。(さよう、開き直りである)

国家の意思が政府の見解として示されて、しかしながらその国家の意思なるものが多数の国民の意識と乖離していたとしても、結局のところ国家とは国民でしかないように、「私」の自由の足枷カセとなる権力とは、最終的には「内なる他者ども」なのである。
(これは、意地の悪い文の見本である、「解離していたとしても」と「結局」の間には、かなり不親切な省略断絶がある。)

が、これを語り出すとこの「世捨て人入門」は、形而上学或いは倫理学になってしまう。

ま、それは別の機会に譲り、取り敢えずここでは、具体的な 世捨て の話をしようと思う。

我妄言す、汝妄聴せよ。

続く~~

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