兀狄山人漂泊録 GotutekiSanzin /Minimal Wild /Ultla Light/ネオBライフ/Hermit

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世捨て 入門~003~理論篇1;人類嫌い

世捨て 入門~003~理論篇1; 人類嫌い
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(写真;御坂黒岳)

漂泊にも落ちがついていないのに話が変わる。
タランティーノの映画みたいに、次々に別の話が現れてやがてうまいこと、最後にひとつの結論になだれ込む……と、上手くいくと良いのですが。

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人間嫌い(と云う現象)には、いくつかのタイプというか傾向?があるようで、それらの傾向の強弱の組み合わせ・グラデーションが個々の人間嫌い(と云う個人)で大きく異なる為、特定個人の人格的問題点をますます面倒にしている。

要するに、人間嫌いにもピンからキリまであって、そんなややこしい奴らなんか誰も知ったことじゃねえ。ってこと。
勝手にすねてろバーカ。
と、健康な人は思ってるのです。当然。
で、人間嫌いの考察は閑却されているのであります。ドン(テーブルを叩く音)

『人間嫌い(のヒト)は、実は人一倍人間に愛されたい、愛したいヒトなのだ。』と云う、テーゼは古今東西文学作品にあらわれる通り、「健康な人間好きな大衆人」にとって分かりやすい「人間嫌い」像です。
「そうあって欲しい」→「そうあるはずだ」→「そうあらねばならない」と云う判断中止脳軟化症的大衆に受けの良いこの理解は又実際に、ある種の低レベルの 人間嫌いの 一面ではあります。

と云うよりも、これ(分不相応に愛されたい、愛したい症候群)は 社会的な人間に共通な要素ですので、『不十分な人間嫌い』は、「いまだ人間の味を滅せず」と云う本性の尻尾を出しただけの話です。

俗な話、高校デビューの失敗みたいな取るに足らない、非本質的な問題です。

「本当は人間を愛したい、愛されたいならば、そのように振る舞うべき」です。
下らない。

閑話休題、。。。

雑な考察ですが、人間嫌いのタイプとして三種類考えてみました。

『程度の問題としての人間嫌い』
『範囲の問題としての人間嫌い』
『人間の本質に対する嫌悪感=人類嫌い』

『程度の問題としての人間嫌い』
『範囲の問題としての人間嫌い』
は、結局は
『文化的な居心地の悪さ、としての人間嫌い』
であります。
これらの傾向は、余程能天気な人間でない限り、誰にでも多少はあります。
何故なら、人間は誰もが程度の差こそあれ弱いからです。
その傾向を自覚的に人生の方針としてライフスタイルにまで昇華させた、相対的な強者は、「人間嫌い」と自称するでしょう。
或いは本人は不本意ながら、他者からの蔑称とされる場合もあるでしょう。
「ひきこもり」「パラサイト」等は、前に述べた不徹底で病的でひ弱な 人間嫌いの 無様な類型でしょう。

これらの考察は、文学や下等な書物にまかせることとします。
(弱さへの考察は必要最小限にとどめる方が哲学としては、品があると思われるからです。)

よって、ここで扱うだろう問題は、基本的に『人類嫌い』に的を絞ります。

人類の本質に、人類でありながら違和感を感じぜざるを得ない精神的傾向を自覚するならば、これは世に棲むこと能わざる十分な理由に足るからです。

先走った予告を言うならば、人類嫌いの関与するところの人類の本質とは、

『心は言葉でできている、よって、世界は言葉でできている』と云う本質です。

続く

兀狄山人記