兀狄山人漂泊録 GotutekiSanzin /Minimal Wild /Ultla Light/ネオBライフ/Hermit

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世捨て 入門~005~理論篇3;『感情と自我』対『理性と直感』

世捨て入門 ~005~ 『感情と自我』対『理性と直感』
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(写真;道を歩く者。~いつかあいにいくぞー)

先走りしますが、
「言葉にあやつられている」、と云うことと、「自由意思は無い」と云うこととはイコールではない。
 関係なくもないが、独立した事象です。

「自由意思は存在しない」ということは、普遍的で絶対的な主張です。
「言葉にあやつられている」ということは、程度問題です。
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「言葉にあやつられている」のは主に『感情と自我』に由来する部分です。
『感情と自我』に囚われている人は、言葉の世界に隷属しています。

逆に、言葉の世界から自由なのは、主に理性従い、虚心タンカイに直感に耳を傾ける人です。

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感情と自我とは、我々人間が、人間の世界で生きる上で重要な仕組みです。

感情は人間の集団に「潤い」を与えます。
顔の皮、その膚一枚がその人の、他者に与える心地よさ=美醜、をほとんど決定するように、多くの場合「情」はその人の心理的外見を決定します。

特に、相対するお互いが、真理を尊び、論理に価値を置き、美に深い造詣が[無いもの]同士の場合、互いの感情を心地よく、傷つけないことこそ、美しい顔の皮と同じように、もっとも重要な技巧、いや殆ど唯一の共有価値となります。
だから、詐欺と云う職業が成り立つのです。
或いは、僧侶、政治家……同じことか……

つまり、それは「潤い」と云う比喩にふさわしい機能です。
人は、騙されたいのです。(これもご記憶ください。)

しかし、如何なる賢者でも、最初に惚れるのは女の顔の皮一枚、乳のふくらみひとつです。
つまり、これこそ、言葉に操られている証座です。

話を戻します。

何故なら、人間は、「言葉の共同体」に参入することを宣誓して集団に受け入れられるからです。
感情は、個人の行動を言葉の世界に従順になるように、規制するために与えられた装置です。

言葉の世界は、一定の行為を『善』、一定の行為を『悪』と規定する規約集と云う一面もあります。

そして、『善』を為すと感情は心地よくなり、『悪』を為すと感情は苦しくなるように、我々は成長過程で社会から仕込まれます。

ですから、うまく調整された人間社会は、互いがかなりの部分感情に任せて行動すれば、問題なく運用されるようにできていたはずです。

ただ現実的に感情による集団の自動運転は上手くいきません。
うまく調整された人間社会、と云うものが現実には存在していないからです。
少なくともこの三千年あまりは……。

うまく調整された人間社会と云うものを目指すと、必ず偽善と腐敗と抑圧を生むという事実は歴史が何回も証明しています。

一対一のような小さな折衝では比較的上手く機能する感情による自動運転ですが、大きく複雑な折衝場面ではむしろ混乱の元凶となっているのが実態です。

感情には原理原則=principleが無く、再現性がなく、抑制がきかないからです。

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自我は個人の「複雑な精神世界」を外部と折衝するための政治的な代表機関です。
比喩でいうならば、個人の精神を「日本国民」とすると、自我は「自民党政府」です。
外国から見ると一義的には、日本=日本政府、であるように、他人から見ると、あなた=あなたの自我 と云うことになります。

自我は、好むと好まざるとにかかわらず、自我以外の精神領域に対して「曖昧な約束をして」「約束を引き延ばし」「ごまかし」「すっぽかす」……要するに「抑圧装置」として働くことを、その大きな職務としています。

個体の社会での中の生き残りの為に、やむなく、自らを含めた自己を、騙すのです。
事実、人間は自分を騙すことにかけては皆が天才的で、且つ情熱的ですらあります。

そして、死を迎えるまで自らを騙しきった人間を社会は「立派な」「幸福な」云々と誉めそやかすのです。
当然のことです。社会的、に、は、立っ派なのですから。メデタシメデタシ

ナガクナリスギルノデ此処まで

続く
兀狄山人記