兀狄山人漂泊録 GotutekiSanzin /Minimal Wild /Ultla Light/Hermit

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勘違い のあやうい立場

勘違い のあやうい立場

勘違いと云うものは、勘違いだと真実が 分かって初めて 勘違いだとわかるということになっている。
すなわち真実との差違があきらかにならない以上 、それが勘違いだということもわからないのである。

視点の問題もある。
A が勘違いしていることを、Bという他人はそれが勘違いだと分かっている。
この場合 勘違いと真実の認識が別々の視点で同時に存在している。
この二人の認識が同時に、客観的に別の他者の前に現れるとき、Aの勘違いは成立する。と言っていいだろう。

思考実験だ。
ひとしれず勘違いをしている人がそのことを誰にも言わずに死んでしまった時場合、その勘違いは成立するのだろうか?

難しい。
そもそもこの設問は、誰が誰に対してなしえるのだろう?
ま、私はこの勘違いは、人物の死と共に消滅してなかったことになるような気がする。

更にややこしくする。

Aが、勘違いしていることを 、B はそれが勘違いだと知っているが、Aが消滅(死でもよいが)してしまったとき、Aの勘違いというBの記憶は、B以外の他者に意味を持つか?
つまり、B以外の他者にとって、Aの勘違いは成立するか?
だって、その事自体がBの勘違いかもしれないではないか?

これも私は、もはや故Aの勘違いは「本当にあったとしても」もはや「もともと無かった」ことになる。ような気がする。
Bの記憶は本人以外に正当性を持てない。
(Aの日記とか、客観的証拠がないとする)

ふむふむ。

では、設問の方向を変える。

Aは事実関係を勘違いをしていた。しかし、時間の経過と共に事実関係がその勘違いの如く変化してしまった。
(或いは、勘違いも真実もまるごとそのものが無効になってしまった。)

この場合、勘違いしていたと云う、Aの記憶は残るだろう。

しかし、さらにAも、勘違いしていた記憶を忘れる、或いは無かったことと思い込んでしまった場合、「本当に有ったはずの」もともとの勘違いは無かったことになるのか?

そう、私は、なかったことになると思う。

ま、もっといくらでも続けれるのだがやめておく。

要するに、私が思ったことは、完全にどうでもいい事だが、勘違いの成立条件は以外に厳しい、或いは許容範囲が小さいのではないかな?
関連事項が変化を遂げていない、わりと短期の間にその勘違いが複数の他者の立ち会いのもと明らかになったとき。とかね……
大抵の場合は、生の勘違いは、ドライアイスのように消えてしまうのではないかな??

ということだ、
理由は二つ。
ひとつは、そもそも記憶と云うものの客観的成立を確認することは難しい。
もうひとつは、人の関与する過去は常に現時点から再構成されるものであり、「神のごとく永遠の相のもとに」事実を見渡すことはできない。

しかし、これは、同時に「真実の成立もまた、あやうい」。
と云うことに、当然なる。

ある思考があったかのように振る舞うことと、本来思考
があったこと、これを他者が弁別することは困難だ。
と、なんだかつまらない犯罪ドラマの裁判劇みたいな話になってしまった。

日常では、いちいち裁判のごとく過酷な思い返しの機会があるわけではないので、勘違い・思い違いたちは次々と産まれてはかつ葬られてゆく。

だから、自分の過去の勘違いたちは早々に忘却し、他人の勘違いには関心を持たないことが、賢者の態度なのではないかな?
お互いの都合よく、記憶を作り直せばいいのではないか、と云う気がしている。
そもそも、勘違いのみならず皆すぐに消えてしまうのだ。
いやいや、ニヒリズムではないのよ、この話は。
人生訓のつもりです。