自由の重さと、自由の軽さ【雑】
ザックの重さは自由の重さ、である。
が、一方
ザックの軽さは自由の軽さ、でもある。
先の重さは、自由の自己責任の重さをかけたものだろう。
後の軽さは、軽やかな気持ちをかけたものだろう。
どちらも、間違いではない。
……軽さは正義。と云う言葉も耳にするが、これは、言葉に対してとても鈍感な無神経さを感じる。
ファッショ(全体主義)の臭いがする、嫌な言葉だ。
頭の悪いスポーツマンが使いそうだ。
心有るならば、使用を控えたい……
ザックの、重さと軽さの、共に自由へと通じる道の平衡を取る、落とし処は、本人のキャラクターにしかないのだろう。
何を、より辛く感じ嫌悪し耐えがたく感ずるか?
何ならば比較的、耐えられるか。
ガタガタ言わずに全部持っていく。と云う、マチズムも一興。
何も持たない、と云う老荘風狂の徒を真似るのも、また一興。
(UL ウルトラライト も、タオイズム、ヒッピーカルチャーの影が濃い)
自由の形は、一つではない。
只一つの、唯一の、自由の条件。
己、独りを恃み、徒党を組まぬこと。
全ての偉大なものは荒野に立つ。
自由と、孤独は、硬貨の裏と表。
引き離すことは出来ない。
孤独を楽しめないならば、自由の楽しみは諦めるしかない。
二人の自由など、古来有ったためしはない。
愛と云う堅牢な牢獄をシェルターとする心は、
200グラムのタープの下の自由を愉しむ心と相容れない。
それは、自由ではなく逃避と云うものだろう。
兀