兀狄山人漂泊録 GotutekiSanzin /Minimal Wild /Ultla Light/ネオBライフ/Hermit

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吝嗇考リンショクコウ-1-β版 【思想】【ネオBライフ】【世捨て】

吝嗇考リンショクコウ-1-β版 【思想】【ネオBライフ】【世捨て】
  
・吝嗇の問題
・高度資本主義社会
・言語と道徳
・倹約と「もったいない」
エコロジーとケチ
・結び
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---吝嗇の問題-------

吝嗇リンショクなんて言葉を持ってきたかと云うと、
ケチ と シブチンは、違うとか、貧乏と貧困は違うとか、そう云うどうでもいいことでなく
①「お金をなるべく使わない行為」は何故負の価値観を持っているのか?
②さらに、どのようなとき、強くマイナスの評価を得るか?
と云う、条件を考えてみたかったので、あまり手垢のついていない "要するに、ケチッて意味の"言葉を持ってきたわけデス。

関西人は色々おっしゃいますが、ケチは、どう見ても良い言葉ではない。マイナスの価値観、人格の否定を含んでいる。

どのような言葉であれ、吝嗇をあらわす言葉を発すとき、その人は相手を見下す・批難する気持ちを秘めている。
……と、ワタシは思います。……

例え、倹約家と言ってみても同じことだ。

(では、批難する意味を含めないときはどのような言葉を使うのだろう?…………
これは、その文脈、状況によるので一概には言えないが、お金を匂わせない方向から言葉を選ぶだろう。
合理的、自然、ワイルド、パワフル、素朴……
とにかく、皮肉が込められていたとしても、あからさまな吝嗇系の言葉ではない言葉を探すはずだ。)

我々の潜在意識には、何故か
「お金を使うこと」=善
「お金を使わないこと」=悪
と云う、道徳観がある。
何故か、象徴界(アッ気にしないで)はそのようなのルールを持っている。

これを、まず仮説として認めると、現実がうまく説明できる。→よって、仮説は正しい。

何故か、と言ったが、理由はわりに簡単に推測できる。

ワレワレは高度資本主義社会に生まれ落ち、生きているから。だ。

---高度資本主義社会------

『高度資本主義社会』と小生が云うものを、簡単にまとめます。

①資本主義が十分に発達し、かつ豊かで生存条件が満たされた社会。
②(①によって) 過剰・蕩尽理論が人々の行動の主たる説明原理として機能してしまう社会。 
③さらに、個人における蕩尽つまり消費行動が、他者(ほぼマスメディア)によって方向付けられる(言い換えれば、各個人が自らの欲望をコントロールしていない)社会。

です。…… 
くどいですが、繰り返し説明すると、、

生存に必要な最低限度よりはるかに多くの物を持っていて、十分自由を享受しているにもかかわらず、
際限なく欲望を肥大させ、際限なく金銭を求め、生の時間とenergyを労働等の経済行為に費やし、過剰な財を蓄積する。
 →十分豊かなのに働くことを止めることが出来ない。

欲望は端的には"物"ではなく消費行動(等)そのもので、蕩尽トウジン(使い尽くす)すること自体が目的となっている。
 →必要なものが欲しいのでなく、(何でもいいから)消費したいと思える対象が欲しい。

昔の糸井重里の名作コピー 
      「欲しいものが欲しいのよ」
……つまり、欲しいものは無い。

人々新たな欲望を求め、市場(つまり商売人)は欲望のフロンティア(未開拓な最前線)を開拓し続け、財を蓄積しては、蕩尽し………

この、無限運動のサイクル、謂わば、欲望のネズミ講的世界を指している。
(商売人は同時に消費者でもある。)

まとめると、
「高度資本主義社会とは、欲望のフロンティアを開拓し続け、財の蓄積と蕩尽を無限に繰り返す行動原理=エトスを持つ人間で構成された社会」のこと。

ざっくり云うと、
「人々が、ほとんどの時間を労働し金を稼ぐことに費やし、その金を無駄な物や事に一瞬で使いはたす、社会」

話が逸れるから止めておくが、スポーツも戦争も宇宙開発も"いきすぎたセクシャリティ・エロティシズム"も、過剰の蕩尽と云う観点からは消費活動とご同類だと云うことに気が付いて下さい。

---言語と道徳-------

エトス(社会の行動原理)は、当然社会道徳の基盤となる。
言語は社会道徳で色付け、染め上げられる。
言語に込められた善・悪のニュアンスは、その社会道徳を参照している。

謂わば、「言語とは社会の善・悪のコードブック」なのです。

ここからが、重要なのだけんど、
言語を使う、と云うことは、その言語の流通している社会の善・悪のルールブックに従うと宣誓したことになる。

哲学者永井均が「倫理学」で、「悪を擁護する言葉はない」と云う趣旨のことを書いていたと思うが、それはこういう意味である。

「いかなる消費であっても、消費が善」、と云う高度資本主義社会では、「当然消費するだろうと期待される場面で消費しないこと」は、まず一義的には批難されることなるでR。

この社会では、お金は、意味があろうがなかろうがなるべく無駄に過剰に使うもの、と期待されている。
無意識のお約束。

---倹約と「もったいない」------ 

先に、倹約家と言っても無駄だと書いたのは、倹約はかつては道徳的な行為だったが、もはや現代においては道徳的な役割を終えて、実質的に善ではなくなったからだ。

倹約家は、非道徳的とは言えないとしても、価値観が古いと判断される。

一時「もったいない」が流行ったが、あれは抑圧された古い道徳観の持ち主、あるいは本当はケチな人の反動だったのだが、当然実質的に現在の社会では無力で、すぐに忘れ去られる。
「もったいない」、が道徳的になりえるのは、まだ高度資本主義に参画していない社会である。
つまり、日本では機能しなくなった古い道徳観は、発展途上国ではまだ機能する、と云うこと、
つまり、裏返しの優越感と「南北問題」的贖罪意識が
「もったいない」ブームの本質だとおもいマス。

……意地悪でスイマセン

---エコロジーとケチ--------

先程、悪を擁護する言葉はない、と書いたが、悪を善と言い換えることは可能だ。
これは何も、詭弁を弄するという種のことではなく、ものごとの視点、論点を変えるとか、その類いの事だ。
いや、逆だな。
消費と云う論点に触れなければ、吝嗇と云う「道徳問題」は最初から発生しない。
話を、消費の方向に持っていかなければよい。

例えば、エコロジーの観点からクーラーを使わないと云う言説に対して、「ケチ」と云う反論は反論足り得ていない。
反論でなく、ゲスな人格攻撃になってしまう。
「クーラーを使わないのはケチだから悪である」と云う批判とはなりえるが、と同時に「エコロジー問題を経済問題にすり替えて個人攻撃をする」品性下劣な反論である、と再反論される危険は当然想定されるわけだから、「ケチ」と思っても普通は口に出来ない。

だから意地悪な見方をすれば、逆に吝嗇な人は「エコロジー」をもってきがちだが、これも諸刃のやいば、いったん、エコロジーを錦の御旗にすると、エコロジー的に生きなくてはならなくなり、結構窮屈な生活を強いられる。
…………
まぁ、エコロジーを語る資格があるのは、車を使わず日常的に数時間歩いたり、クーラーを使わなかったり出来る変人(旧山男とか、Bライフ人とか……)だけになってしまう……
この話題(エコロジーとケチの問題)もふくらみを持つのだが、とりあえずここまで。

---結び------

①の回答は、一応得られたとしておく。

①「お金をなるべく使わない行為」は何故負の価値観を持っているのか?
答え;日本が、十分に発達した高度資本主義社会だから。 QED コレニテショウメイオワリ

さて、長くなりすぎた②はまた、別の機会に。

🐽 🐽 🐽

……ところで、リンショク も コウ も変換しない。どうなってるんだろう?